現在は郊外のキッチンつきホテルから通勤している田口選手ですが、
「前はずっとダウンタウンのホテルにいましたから、結構詳しいですよ。車で探索したら5分で終わっちゃいますけどね」
でも、そのコンパクトさが、結構便利でお気に入りなのだそうです。ただし、
「特に夜は、メインストリートを外れられません」
と厳しい表情です。確かに、栄えているのはほんの数ブロックだけで、正直なところ、なんだか灰色でさびれているという印象を受けます。
もともとメンフィスは、南部で採取された綿の交易で栄えました。州境の街という位置関係で、交易のために集まってくる他州の商人たちの、それぞれの法律を調整するための法律事務所、そして銀行などが、多数ダウンタウンに集中していました。
しかし、時代の移り変わりに伴って、ダウンタウンはいつの間にかかつての華やかさを失い、住宅や商業は、ミシシッピ川沿いを離れ、東へと発展し始めました。すっかり見捨てられた形となったダウンタウンは、一時はアメリカ国内でもワーストレベルに挙げられるほど犯罪率が上がり、ゴーストタウンと化してしまったのです。
この状況を憂いた地元の富豪が、「ダウンタウンに再び人を呼び戻そう」と、いくつかのホテルを買い取り、新たにショッピングセンターを建設するなどして、メンフィス・ダウンタウンの再建に乗り出しました。政府もそれに協力して、街の清掃、整備に力を入れはじめました。その結果、メンフィスには再び観光客が多数訪れるようになったのです。「おかげで犯罪率もぐっと減りました」とは、地元の警官。「まだ中心部を外れると危ないところもありますが、ビールストリートを中心とした地域は、充分楽しめますよ」

ミシシッピー川に面するメンフィスの街
「ブルース、エルビス、そして映画・・・」
ビール・ストリート、と言えば、メンフィスのダウンタウンを語るとき、絶対外せない通りです。オートゾーンパーク(レッドバーズの球場)から歩いて2分。道の両側にずらりと並ぶ、名物のBBQ(バーベキュー)レストラン、バー、そして、ライブハウスの数々は、夜になるといっそうにぎやかさを増します。田口選手も「BB KING」の店で、メンフィスの誇る実力派シンガー、ルビー・ウイルソンのライブを楽しんだそうです。
「ブルースの発祥の地ですから、音楽ファンにとってはレアなものがたくさん見つかるでしょうね。僕も迫力ある歌声に感動しました。」
そして、エルビスプレスリー。彼の家・GRACELANDは、ダウンタウンからフリーウエイで15分ほどの「エルビスプレスリー・ブルバード」に今も残り、世界中からエルビスファンが訪れます。そのエルビスが初舞台を踏み、スターへの道を駆け上がっていったのが、ここ、メンフィスだったのです。
さらに、知る人ぞ知るメンフィス名物は、映画。街並みが、数々の映画の舞台になっているのです。
「キャスト・アウエイ(トムハンクス主演。FeDex(フェデックス。管理人注:米国の国際宅配業者)の飛行機が墜落し、たどり着いた無人島から生還するというストーリー)にも出てきましたよ。FeDexはここが地元ですからね」
その他、羊達の沈黙、ザ・ファーム、ゴーストバスターズなど、有名な映画のシーンに、メンフィスが登場するのです。

メンフィスのダウンタウンにあるオートゾーン・パーク
こんなふうに、どちらかといえば芸術的な分野で知られているメンフィスですが、街の人たちは「それだけじゃない、NBAもあるし、何より野球があるよ!」と胸を張ります。今年で5年目を迎えるメンフィス・レッドバーズは、地元の人たちにとって誇りであり、楽しみの一つ。いつも大勢のファンが、赤い「M」の帽子をかぶって集まります。アメリカで唯一の「ノンプロフィット(利益を目的としない)」スポーツチームとして、収益はすべて街の子供たちのスポーツ事業などに貢献されています。
「球場の応援は、いつもすごいです。よく野球を見ているし、知っている。そして、声援、歓声も、的を得たシーンでちゃんと起こります。気持ちいいですよ。」
たとえば見過ごされてしまいがちな、一見地味な、でも大切なプレーに、観客は立ち上がって拍手を送ります。それが田口選手は何よりも嬉しいとか。
あるファンは言います。「ここにいる選手は、僕たちにとって誰もがかわいい。だからこそ、一日も早くここからいなくなってほしいんだ。メジャーで活躍する姿を見せてくれたとき、きっと、ああ、僕らのヒーローががんばっているとわくわくすることができるからね。ソウもきっとまたすぐにいなくなるだろう。寂しいけれど、僕らの応援が、一日も早く彼をセントルイスに連れて行ってくれるといいよね。あんなにすばらしい守備をする選手は、メジャーにだってなかなかいないよ!」

オートゾーンパークをバックに
メンフィスからセントルイスまでは、車で約6時間の道のり。まっすぐ北上するフリーウエイ55の先には、カージナルスが待っています。再びの凱旋がいつになるかは
「誰にもわからない。でも、今学べることを全部吸収するだけ。」
という状態ですが、ここメンフィスが、田口選手が生まれて初めて暮らしたアメリカであり、アメリカ野球を初めて学んだ場所には間違いありません。どちらかというと不器用で、何かをつかむまでに時間がかかるという田口選手。でも、メンフィスで積み重ねた経験や思いは、近い将来、「メジャーリーガー・田口壮」の大切な礎となることでしょう。
「特別インタビュー・縁の下の力持ち」
メンフィス・レッドバーズ唯一の日本人職員・長谷川嘉宣(よしのり)さん
「長谷川君は、いまや家族の一員です。誰も知らない、何もわからないこのメンフィスにくることになった時、長谷川君がいてくれた、それがどれだけ気持ちを楽にしてくれたかわかりません。プレーそのものの部分では分野が違うので、直接助けてもらえないのは残念です(笑)が、その他の部分ではお世話になりっぱなしです。人の気持ちを深く察することができる、仕事のできる優しい男です。」
田口選手がカージナルスとサインする少し前、オハイオの大学院でスポーツ経営学を学んだ一人の日本人が、メンフィス・レッドバーズのインターンとして採用されました。長谷川嘉宣さんは、京都出身の24歳。日本で大学を卒業後、大好きなアメリカのスポーツ、とりわけ野球に関わりたいと、オハイオに留学しました。卒業後、大学のネットワークなどを通じて、さまざまな球団に仕事を打診。「日本人が来るかもしれないメジャー球団で通訳をやったほうが、やりがいもあるのでは」という声もありましたが、「まずはアメリカ人の中でもまれる経験を重視したいから」と、あえてマイナー球団の職員としてキャリアをスタートさせたのです。その数ヵ月後、田口選手がカージナルスとサインしたと知った時は、本当にびっくりしたとか・・・。

メンフィス・レッドバーズで活躍中の長谷川さん